日々学び中

2014年6月から小杉利津子さんの真理の勉強会、真理心理学臨床心理学実験(2019年~2021年)に参加していました。その時に学んだこと、今になって分かったことを主に書いています。

ブログを書くことについて

こんにちは。ご訪問ありがとうございます。

 

ブログを再開してから、7ヶ月以上が経った。今思うことを書く。

私は、りつこさんに教わったことをシェアすることで、りつこさんの言葉が、読んでくださった方にとって、自分と向き合う材料になったり、生きやすくなったりと、何かの役に立ちたいと思いブログを再開した。

私は一人ひとりの変化が、どんどん拡がっていき、延いては社会も変わると思っている。また、私のバカな体験を書くことで、こんなやつもいるのだと、読んでくださる方の励みになるかもしれないという思いもあった。

ブログを書くことで復習にもなり、新たに分かったこともあった。自分の我と向き合ったり、我の意識でいると、自立することは難しいことも腑に落とせたように思う。

こんな拙いブログだから、読者さまも少なくて、読んでくださる希少な方には、とても感謝している。

そして今思うのは、私は、誰かに褒められたいからブログを始めたのではないか?ということだ。以前夫に言われたことから、私は料理することに、家族から感謝されたい思いがあると気づいた。私はブログを書くことで、感謝されたり褒められたりしたい、誰かの役に立てていると、ただ自惚れたいだけなのではないか?そう考えていくと、我の真っ只中の私は、自分のためということが一番な気がする。しかし、ブログを書くことをやめたいから、何か理由をつけて、やめようとしているのではないか?とも思う。

このような考えが、ここのところずっと頭にあり、自分でもよく分からずにモヤモヤしている。

だから、しばらくブログをお休みしてみようと思う。そして、自分が何を考えているのか?どうしたいのか?と、向き合うことにする。

R5.11.24 12:41

感情は心が司り、理性は精神が司り、それらを総括しているのが「意識」

こんにちは。ご訪問ありがとうございます。

 

私は前回の記事に、「最近心穏やかに過ごしている」と記したが、そうでもなかった。ニュースを見ると気が滅入ることが多い。だからあまり見たくないと思ってしまうが、世の中の動向を知るために、時々は見ている。

議員や町長のハラスメントや、歌劇団の事件や、先日は教師のわいせつ事件のニュースを見て憤りを感じ、本当に世も末なんだと思った。力のある人がその立場を利用して、逆らえない人に対して自分の欲望を満たす、卑劣な行為だと思う。私がこのような事件をよく見聞きするのは、私も母に対して同じような気持ちを持っていて、そこに焦点をあてているからなのか?とも思う。また、私も同じようなことをしているのではないか?と、自分の言動行動を省みたりしている。

りつこさんに【感情は心が司っている。理性は精神が司っている。その駆け引きや兼ね合いを総括しているのが「意識」だ。まずは意識をしっかりはっきりさせること。ボーッと生きていると,いつまで経っても「心の動き」や「精神の働き」は理解できない。(”0和”実験連絡ブログより)】と教わった。

自分の感情のままに動いてしまうのは、精神の働きが弱いからで、意識がしっかりはっきりしていないから、心に引きずられてしまうのだと、私は解釈している。

また、りつこさんの記事に、

hapiwaku117.hatenablog.com「邪霊」とは、既に人間の肉体に霊=「心」として染み込んでいる者が大部分です。←今が「末法」という時期が時期なだけに当然の成り行きで。

昔から言われていた「浮遊霊」や「地縛霊」という「単体の形」が、今や単体の形を取らずに、生きている人間の「意識」と同調した状態、「肉体+色んな霊体=総合体」このような状態で生身の人間一人ひとりの肉体に、色んな霊体が住まう団地及び集合住宅のような状況です。】

そのような状況に、色んな邪霊や霊体の糸(=意図)まで引き込んでいるのですから、もう「いつ?」自分がヤバい次元の意識に引き込まれたり、今回の事件のような邪霊の意識と同調し、犯罪行為を犯しながらどこか?“他人事”のようにして、考えたり等して「事件」に絡まれるか?が分からない状態……それが「末法の世」です。】とある。

邪霊は【人間の肉体に霊=「心」として染み込んでいる者が大部分】で、【生きている人間の「意識」と同調した状態】なので、意識をしっかりはっきりさせていないと、他人事のように、犯罪行為を犯すことになるかもしれないのだと思った。褒められたいとか、他人より優れていたいとか、邪霊は我の意識と同調しているのだと思う。

意識をはっきりさせるには、まずは自分の言動や行動に疑問を持ち、自分と向き合っていくことだと思う。私は、無意識のまま流され続けたくない。

R5.11.22 12:20

高望みする癖

※【】内はりつこさんの言葉です。

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こんにちは。ご訪問ありがとうございます。

 

私は実験で、りつこさんに「高望みする癖」を指摘してもらった。

【智の頭の中では「いつも高望みする癖」が,私に向ける質問の要所要所に露呈されている。そうやってこれまで理想化した自分自身像と,この私とを常に比べて「イイ悪い」をジャッジしている。その癖そろそろヤメてほしい★でないと,周囲のビジョンがいつまで経っても見得て来ない。故に私以外の他者と心の手を繋げない】

そろそろ階段昇る←その動作はヤメない?……自身の視点を落ち着かせて(=安定させて「杭を打つ」),その視界を広げて,先行き=未知=道:考え方を伸ばして行ければ,自然と発想も大きく広がるよ。そうすることで自分を小さく,もっと言えば「極小な自分」として捉えられるようになる。それで波風が立つ感情論とはおさらばできるという,そういうストーリー展開になっている。で極論として,そうして進んで行かないと,その先に存在する本物の光り=真理には到達できない(←なんせ「みずから」だから)。よろしく〜☆彡】

私はここのところ、心穏やかな日々を過ごしているが、少し前までは、波風が立ちまくり常に時化の状態だった。いつも焦燥感があって、何かに煽られているような、せっつかれているような感覚で、自分でも原因がよく分からなかった。

今考えてみると、りつこさんに指摘されたように、いつも高望みして、上へ上へと向かおうとしていたことが原因だと思った。私は成長するというのは、階段を上っていくというイメージを持っていたけど、りつこさんが「昇る: 高い地位につく。  太陽・月などが空高く現れるまた、上方すすんで高い所に達する。(デジタル大辞泉より)」を使っていることから、私の実際は、自分の足を使うわけでもなく、一気に楽をして、自分を実力以上の上におこうとしていたのではないか?と思う。この高望みする癖も、我の意識で生きている証拠だと思った。

上ばかりを見ているから、自分の足元や自分自身に目を向けることもしないし、他人にも興味がない。妄想で、自分の理想の凄い人になれるから、努力も不要。いつまでたっても実力がつかないし、ひとりよがりなままだ。自分で自分の範囲を狭めていたのだと思う。

夫に、「ともは向上心があるね」と言われたことがあったけど、私の場合は、自分の小ささを認められず、身の丈が分からず、無理して高望みしているだけだった。

自分の理想が高すぎるから、その差で落ち込むことも多かったが、自分はこんなものだと分かっていれば、装わなくてもいいし、誰とも比べなくてもいいし、ショックをうけることもないのだと、今は楽になっている。

R5.11.20 12:17