日々学び中

2014年6月から小杉利津子さんの真理の勉強会、真理心理学臨床心理学実験(2019年~2021年)に参加していました。その時に学んだこと、今になって分かったことを主に書いています。

負荷がかかって偏る

※【】内はりつこさんの言葉です。

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以前、りつこさんからいただいたコメントの中の、「方向指示器」が気になり考えていた。

【方向指示器に成るという事は、負荷が掛かる、という事になるので、偏っていく、つまり「片方に寄って行く」動作になるので、王道という真っ直ぐな道から外れて行く……という感覚につながります。】

このコメントをいただいたときは、私は、自分が行く方向を決めたという意味で解釈していたが、自分のためだけなら、わざわざ方向指示器にしなくてもいいのでは?と疑問に思った。

Wikipediaには、「方向指示器(ほうこうしじき)とは、自動車オートバイなどに付ける保安部品で、右左折や進路変更の際に、その方向を周囲に示すための装置である。」とあり、やはり、自分以外の人に、方向を示すためのものであると思った。

改めてりつこさんのコメントを考えてみると、他者の目を気にして、装って、アピールすることを「方向指示器」と言っているのではないか?と思った。~しなければいけない、~するべき、いい人だと思われたい、尊敬されたいなどと、我の意識で生きていると、常に指示器を出しているのだろうと思った。

りつこさんに「思いは重い(私の解釈)」と聞いてきたが、その重さが負荷になって、偏り、どんどん真っ直ぐな道から外れて行き、自分がどこを歩いているのか?どこへ向かっているのか?も、分からなくなって、暗闇を彷徨うことになるのだと思った。

私には「王道」が何なのか?がよく分からないけど、今のところは、「真理への道」なのかな?と思っている。

こうして考えてみたことで、私は他者の目ばかりを気にして、自分を装うことばかりをしていたから、負荷がかかり偏って、道を外れたことにも気づかず、疑いもせず、堂々巡りをしていたのだと分かった。

R5.11.16 11:05

言葉の責任

※【】内はりつこさんの言葉です。

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勉強会や実験で、りつこさんに、私たちは無責任に言葉を吐いていると、度々指摘されてきた。私はこうしてブログを書いているけれど、「言葉の責任」というものを分かっているのか?よく分からない。

実験中、りつこさんから以下のように聞いてきた。

【言葉の責任をとるというのは、自分の中に在ることに気づいていくこと。言葉、思い、吐くことは全部自分の中にある】

【頭の中で思っていないのに、言葉を吐くことは無責任】

【頭の中で実際に起こしたものだけ責任がとれる】

【心の世界をどう思い描いて言葉をどう使うか?】

「言葉の責任」とは,助詞・助動詞含め,名詞・動詞・形容詞等々の単語ひとつをとってみても,その単語1つひとつに,「どのような思い」を入れるか,込めるか,で,訴えたい,または記したい,「その心」が違ってきている,違ってきてしまう……それが,私たちが普段何気なく使用している『言語』の本質なのだ。そのような意味の有る言葉を,無責任に,簡単に,さっさと,自分のために,取り繕うために,頭良く見せたいために,言い訳するために,等々の「だらしのない使い方」を,人は毎日自然にやっているのだ。】

私は、言葉の責任をとるというのは、自分が言ったことをする、約束を守るということだと思っていたが、これは表面的なことだと思う。

うろ覚えなので違っていたら申し訳ないが、以前私は、りつこさんに、「自分が書いた文章は、なぜその単語を使ったのか?を全て説明できる」ということを聞いたことがある。私はそこまで考えて、言葉を使うことをしていなかった。今は辞書を引きながらブログを書いているが、意味を調べてみると、自分が思っていた意味とは違うということもよくある。本来は、自分の中に在るもの、心で思い描いたものを言葉にしていくのだから、説明できない方がおかしいのだと思う。

同じ日本に生まれ育っていても、使う人により言葉の定義も違っていて、全員が同じ意味で使っているとは言えない。その人の環境や経験でも変わってくると思う。私は相手を慮ることなく、相手の言葉を自分の範囲のみで解釈していたし、自分の言葉は、相手に伝わって当然だと思っていた。また、あえて漠然とさせることで、相手に都合よく受け取ってもらおうとすることもあると思う。

先日、母(軽度の認知症)と話をしていた時、私が言った内容に、母が反射的に返答していると感じた。自分が忘れてしまっていることを隠すためなのか、一貫性のない繕うようなことを言い、自分が何を言ったのかを覚えていない。母は病気の影響もあると思うが、【「だらしのない使い方」】というのは、こういうことなのかと思った。母の姿は私の姿で、私もこのようなことを、無意識にやっているのだと教えてもらった。

R5.11.13 11:06

無様

※【】内は”0和”実験連絡ブログ内の、りつこさんの言葉を引用したものです。

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実験時に私たちは、りつこさんから度々「無様」と指摘されてきたが、私は正に、無様な態度でひと事にしてきていた。

【誰かが,否「いざ“自分”が被害に遭わないと,まともに“他人の立場”を考えない(=真剣に向き合わない)」という,そんな「生きる姿勢」のことを,私は「無様」と呼んできた。←多分,辞書じゃ教えてくれないから,今日のトピックにする(←これも,充分「真理」だけど★)

無様」←この文字をひっくり返すと「様(が)無(い)」。ということは,「自分じゃないから,考えない or 考えられない」。よって「ひと事にする」という認識になる。】

意味を調べると、「無様:体裁の悪いこと。手ぎわの悪いこと。また、そのさま。(デジタル大辞泉より)」とあるが、りつこさんの記事の意味とは違っている。私は、今まで散々体裁だけは整えてきたが、無様なままだった。

「様」の意味を調べると、「①さま。ありさま。かたち。 ②あや。図がら。かざり。③きまった形式。かた。手本。④名前や代名詞などの下に添えて敬意を表す語。(漢字ペディアより)」とあり、りつこさんの【「様(が)無(い)」】の「様」は、①の意味だと思った。

そして「さま、かたち」が無いというのは、弁えることができず、自分の姿が認識できないことだと解釈した。自分の様が無いから、自分のこととして受け止められず、考えないし考えられない。何を見ても聞いても、自分には関係ないと、ひと事にしてしまうということではないか?と思った。

R5.11.10 10:55