日々学び中

2014年6月から小杉利津子さんの真理の勉強会、真理心理学臨床心理学実験(2019年~2021年)に参加していました。その時に学んだこと、今になって分かったことを主に書いています。

言葉の責任

※【】内はりつこさんの言葉です。

☆ーーーーー☆ーーーーー☆ーーーーー☆ーーーーー☆ーーーーー☆ーーーーー☆

こんにちは。ご訪問ありがとうございます。

 

勉強会や実験で、りつこさんに、私たちは無責任に言葉を吐いていると、度々指摘されてきた。私はこうしてブログを書いているけれど、「言葉の責任」というものを分かっているのか?よく分からない。

実験中、りつこさんから以下のように聞いてきた。

【言葉の責任をとるというのは、自分の中に在ることに気づいていくこと。言葉、思い、吐くことは全部自分の中にある】

【頭の中で思っていないのに、言葉を吐くことは無責任】

【頭の中で実際に起こしたものだけ責任がとれる】

【心の世界をどう思い描いて言葉をどう使うか?】

「言葉の責任」とは,助詞・助動詞含め,名詞・動詞・形容詞等々の単語ひとつをとってみても,その単語1つひとつに,「どのような思い」を入れるか,込めるか,で,訴えたい,または記したい,「その心」が違ってきている,違ってきてしまう……それが,私たちが普段何気なく使用している『言語』の本質なのだ。そのような意味の有る言葉を,無責任に,簡単に,さっさと,自分のために,取り繕うために,頭良く見せたいために,言い訳するために,等々の「だらしのない使い方」を,人は毎日自然にやっているのだ。】

私は、言葉の責任をとるというのは、自分が言ったことをする、約束を守るということだと思っていたが、これは表面的なことだと思う。

うろ覚えなので違っていたら申し訳ないが、以前私は、りつこさんに、「自分が書いた文章は、なぜその単語を使ったのか?を全て説明できる」ということを聞いたことがある。私はそこまで考えて、言葉を使うことをしていなかった。今は辞書を引きながらブログを書いているが、意味を調べてみると、自分が思っていた意味とは違うということもよくある。本来は、自分の中に在るもの、心で思い描いたものを言葉にしていくのだから、説明できない方がおかしいのだと思う。

同じ日本に生まれ育っていても、使う人により言葉の定義も違っていて、全員が同じ意味で使っているとは言えない。その人の環境や経験でも変わってくると思う。私は相手を慮ることなく、相手の言葉を自分の範囲のみで解釈していたし、自分の言葉は、相手に伝わって当然だと思っていた。また、あえて漠然とさせることで、相手に都合よく受け取ってもらおうとすることもあると思う。

先日、母(軽度の認知症)と話をしていた時、私が言った内容に、母が反射的に返答していると感じた。自分が忘れてしまっていることを隠すためなのか、一貫性のない繕うようなことを言い、自分が何を言ったのかを覚えていない。母は病気の影響もあると思うが、【「だらしのない使い方」】というのは、こういうことなのかと思った。母の姿は私の姿で、私もこのようなことを、無意識にやっているのだと教えてもらった。

R5.11.13 11:06