日々学び中

2014年6月から小杉利津子さんの真理の勉強会、真理心理学臨床心理学実験(2019年~2021年)に参加していました。その時に学んだこと、今になって分かったことを主に書いています。

今になり気づいたこと

※引用、【】内は”0和”実験連絡ブログの、りつこさんの言葉です。

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こんにちは。ご訪問ありがとうございます。

 

実験時の内容を読み返していると、今になり、りつこさんの言葉は「こういう意味だったのかな?」と思うことがある。その時はさらっと読んでいて、意味を考えることをしていなかった。りつこさんの記事から、また新たな発見があったので記しておく。

幼少時は二段ベッド,母が離婚してからは布団,その後独身時代にベッドが復活し,さらに新婚時代で布団生活が戻り,またここ5年間ほどベッドで寝起きしていた。そんな“寝床”に遍歴を持つ私が,またしても「布団で起きる」生活となった。

 実際「ベッドから起き上がる」動作が,実はこんなに“楽だった”とは思ってもいなかった。逆に今「布団で起きる」動作が復活し,年齢を経た肉体に,特に“腰”にこんなに「負担を掛けていた」なんて事実に,今更ながら気づいたのだった。

これはある種「霊的な問題と全く同じ原理であり構図である」と捉えられる。ただいま当実験参加者皆に対し,不肖私が独特かもしれない主張,その「考え方」は,実験の命題でもある「霊的自立(=自律)」だ。それは,自分の人生に於いて,当然だが「自分の価値判断で思考していくこと」がベースとなる“モノ”だ。それに対し,一方では誰か第三者の発想や思想に頼った形でする「精神的自律」である宗教やその他教義その“モノ”は,自分自身の思考をあらゆる面に於いて,また物事を判断するための思考回路自体に於いて,「免疫力を奪っている」ことにこれまた今日気づいた。出来立て,正に「ほやほや」の気づき記事だ。

 

この【「免疫力を奪っている」だが、改めて「免疫」の意味を調べてみると、

  1.  病原体毒素外来の異物、自己体内に生じた不要成分を非自己と識別して排除しようとする生体防御機構の一。(デジタル大辞泉より抜粋)」

とあった。私は、免疫力を高めたら病気をしづらくなるとか、その程度の認識しかなかったが、「免疫」は自己と非自己を見分けて、不要なものを排除することだと知った。そしてこれは、りつこさんから言われてきた「弁える」ということなのではないか?と思った。

「弁える」については、以下のように言及されている。

「線で区切る,境をつける(実験⑫より)」

 分別のことを「弁える」と何度も示してきた

【〔辞書より〕ふんべつ【分別】(名)スル

① 物事の是非・道理を判断することわきまえること。また,そのような能力「事態を―する」「思慮―がある」

② 〘仏〙  虚妄である自他の区別 を前提として思考すること。転じて,我(が)にとらわれた意識―みだりに起こりて,得失止む時なし」〈徒然草•75〉 】

(「立場を弁える」という表現を)【【「一線を引いて境界線にしている」ことを「画する」】の意味で使用していた。】

【「自立する気」が起きて(←この場合の「起きて」は,文字の通り横になって寝ていた状態から「立ち上がる」という意味の動作ね)くれば……「自覚する」に繋がり,「自覚する」から「分かろうとする気持ち」が湧く。すると枠が出来てきて線が引ける。よって線が引けるようになれれば……弁える,つまりは弁別が出来てくる。弁別が出来てくると……構築がなんとなく適うようになっていく。】

誰かの価値観に従って生きることは、ある意味楽だ。自分の力だけで起き上がらなくてもすむ。私も母の価値観で生きてきたと最近気づいたばかりだ。これも【誰か第三者の発想や思想に頼った形でする「精神的自律」である宗教やその他教義その“モノ”】であったのだと気づいた。

対して霊的自立は、【自分の人生に於いて,当然だが「自分の価値判断で思考していくこと」がベース】であり、自分で起き上がり立つには負荷がかかるし、要がしっかりしていないと起き上がれない。私は自分で立つよりも、楽をする方を選んでいたのだと改めて分かった。私は自立しているつもりで、ただ誰かの作った規範に従っているだけだった。誰かのモノを自分のモノとしていることにも気づいていなかった。そうしているうちに、どんどん免疫力を奪われ、病気状態であることにも気づかなかった。

私はりつこさんの記事の「免疫力」を「弁える」と解釈したが、分かる分からない、できるできない、本当のことと嘘偽りなど、弁えることができないと、いつの間にか洗脳されることにもなると思う。また、自分の程度が分からず自分を過大評価したり、逆に過小評価して、本当はできるのに、できなくなっていくこともあると思う。視野がとても狭くなるように感じる。

「自立する気が起きる→自覚する→分かろうとする気持ちが湧く→枠が出来てきて線が引ける→弁える(分別)ができてくる→構築がなんとなく適うようになる」と私は解釈しているが、弁えるまでには段階がある。

誰か第三者の発想や思想に頼った形でする「精神的自律」】は、楽をして自立しているつもりになるから、「自立しよう」という気も起きないだろうし、自分に疑問も抱かない。だから分かろうという気持ちも起きないし、いつまでたっても、自分が我の意識でいることが分からないということだと思う。すべてを曖昧にして、虚像の自分に満足して、闇の中を漂うだけだと思った。

私は散々堂々巡りをしてきた。今もしているのかもしれないが、この振り返りで、その状態を客観的に見ることができたように思う。

R5.10.13 12:05