日々学び中

2014年6月から小杉利津子さんの真理の勉強会、真理心理学臨床心理学実験(2019年~2021年)に参加していました。その時に学んだこと、今になって分かったことを主に書いています。

お節介だと誰が決めるのか?

※【】内はりつこさんの言葉を引用したものです。

おはようございます。

私は勉強会(2019.10~2021.4は実験)に参加していた時、お節介について、りつこさんに下記のコメントをもらったことがあります。

今また、改めて気づいたことがあったので、書こうと思います。

【この世は「お節介な人」が居てくれて,またその“お陰様で”縁を円にして丸く,そして和が適うのだ。とものお節介さを嫌う思考癖は,実際は超恥ずかしい部類に入る。】

いつものように、お節介の意味を調べてみます。

[名・形動]出しゃばって、いらぬ世話をやくこと。また、そういう人や、そのさま。「—をやく」「—な人」(デジタル大辞泉より)

私にとっては、お節介=迷惑で、お節介はしたくないし、されたくないと思っていました。

このコメントをもらった時、私はお節介と押し付けを混同していたのだと思い、お節介って悪いものじゃないんだと、どんどんやっていこう!と思いました。

しかし今思えば、この時の私は、お節介を自分の中の悪いから良いに変更しただけでした。

お節介は、された方がお節介だと思えばそうで、逆に言えば、する方が決めることではないのではないか?と思います。

実際にやってみなければ、相手がどう思うのかは分かりません。立場や状況、その人の性格でも違い、人それぞれだと思います。

私は、自分がお節介だと思うから、きっと相手もそうなのだろうと決めつけて、迷惑に違いないと思い込み、やらない理由にしていました。お節介そのものが良いとか悪いではなくて、誰とも手を繋ごうとしない、こういう思考癖が恥ずかしいと言われていたのだと思います。

私のようなお節介さを嫌う思考癖は、全て自己解決して、全て自己責任でというような、個々で分断されるような世の中には合っていると思います。

しかし私は、お互いに助け合えるような世の中の方がいいです。子どもたちの世代、孫の世代、その後まで、みんなが生きやすい世の中を希望します。

だから私は、時には迷惑と思われることもあるだろうけど、お節介おばさんをやっていこうと思います。

R5.4.26 7:56